会長は戦争も大変だったが、神奈川の鬼の砲術学校の訓練のほうが大変過酷だったと語っていた。それでも、学校中2番の優秀な成績で卒業されたそうだ。会長は硫黄島に大砲を扱う兵隊として送られたそうである。しかし、大砲が破壊され任務が無くなったので、遭難船の引き上げや救助のため、北硫黄島に送られた。これが生死の運命を分けることになる。会長は小さく防御もままならない島に送られることが、非常に心細く心配であったようだ。島につくとアメリカ軍が容赦なく爆弾を朝昼晩と落としてくる。しかし、幸い上陸しなかった。遭難船から引き上げた大量の爆弾を保管していたのだが、アメリカの爆弾が保管している爆弾を直撃し、しばらくの間爆発がとまらなっかたことが幸いしたようである。アメリカ軍は、島に相当爆弾が残っていると、勘違いし上陸を断念した。
硫黄島のように日本兵を上回る2万5千人近くの戦死者を出していたので、無理して上陸して制圧することを諦めたそうである。このことが、太平洋戦争史上最も過酷な激戦地から、奇跡的に生還した理由である。
写真は、命を繋いだ水筒である。幸い北硫黄島は湧き水があり、この水筒を離すことなく常に傍らに置いていたそうである。表には漢字で栗と書いてある。栗林中将率いる栗林兵団所属の水筒だそうだ。その他は新聞の切り抜きや、北硫黄島で戦った仲間の集合写真。すり鉢山の形が崩れるほど激しい爆撃の嵐を落とした後、アメリカ海軍の舟艇が不気味な波を立てて上陸する様子を取った写真など見せてもらった。どの資料も重みがありすぎて、無口になる。特に、アメリカ軍の大量の舟艇が進む写真は強烈だった。あの小さな島の暑苦しい壕に隠れて、上陸を待つ日本兵の気持ちを考えると、胸が張り裂けそうな気持ちになった。たった、5日で制圧する予定が、36日間の激闘を繰り広げることになる。栗林中将以下、東京へのB−29の空襲を避けたい。日本兵は、この一心で団結し戦ったのである。